オッサンのブラリ一人旅(お菊神社~お菊伝説Ⅴ)

 お菊伝説の5回目です。
 落語にも、皿屋敷の話はあるのですが、我々がイメージする通りの物語が基となっています。
 江戸落語にも、上方落語にも同じ話があります。江戸の皿屋敷が元だと思ったのですが、どうやら上方の「車屋敷」が原型で、江戸に伝わったようです。ここでは、上方落語の「車屋敷」を紹介したいと思います。車屋敷」は勿論滑稽話で、播州姫路の話です。
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車屋敷です。
 昔、姫路の若い者がお伊勢参りをしました。その帰り道、京都伏見から三十石船に乗ったとき、船中で国は何処か?訪ねられ、播州姫路と答えると、「姫路なら皿屋敷は知っているか?」と言われ「知らない」と答えると、さんざん馬鹿にされ、恥をかきました。
 姫路に帰って仲間にその事を話しても、だれも皿屋敷の事を知りません。仲間の一人が、それならば裏のご隠居に聞いてみようと言う事になりまして、皆でご隠居の所へやって来ます。皿屋敷を尋ねる一同に、「なんも知らんのか?芝居や浄瑠璃を見た事無いんか?播州皿屋敷言うたら有名な話や。城下をちと西へ外れた所に大きい井戸の有る屋敷跡があるやろう。」「あれは、車屋敷と違いますか?」「そや、地の者は車屋敷と呼んでいる、あそこが、皿屋敷の話が有った所や」と言って、ご隠居は車屋敷で起った事を話し出します。
 ご隠居の話によれば、車屋敷に青山鉄山と言う姫路の代官が住んでいました。そこにお菊と言うなかなか器量の良い腰元が居り、鉄山はお菊に言い寄りますがフラれてしまいます。こうなれば可愛さ余って憎さ百倍。何とか、お菊に仕返しをしようと家宝の皿をお菊に預け、お菊が留守の時に皿を一枚隠します。後日、家宝の皿が要り様なので皿を出すようお菊に命じます。数を改めると一枚皿が有りません。濡れ衣を着せられたお菊は、鉄山に責め殺され井戸に投げ込まれます。それからと言うもの夜ごと鉄山の枕元にお菊が現れついに鉄山は呪い殺されました。その後も、毎夜、決まった時刻にお菊が井戸から現れ、皿を数えるようになりました。
 話を聞いた若い者達は、お菊の幽霊を見に行こうとします。するとご隠居が「待て待て、以前にも、一人の相撲取りが幽霊を見に行って九枚と言う声を聴いた途端ガタガタと震えだし死んでしもうた言う話や。」それなら七枚位で逃げ出せば大丈夫やないか?と言う事になり幽霊見物に出かけます。車屋敷で井戸を囲んでいると、やがてお菊が現れ、皿を数えだします。七枚ほど数えたところで一同は逃げ出します。逃げ帰ったところで一人が「明日も行こか?」「何や?」「そうかて、お菊はん豪い別嬪やないか?」という訳で、お菊の幽霊は評判になり連日大勢の人が押し掛けるようになりました。ある日の事、お菊が出て来ると声の感じが少し違います。見物人が尋ねると風邪気味との事、皿を数え始めますが、九枚を超えても終わらず一八枚まで数えてしまいます。見物人が文句を言うと、「そやから、風邪気味やと言ってるでしょ。今日、二日分数えて明日休みますねん」
 これが、落語の車屋敷のあらすじです。鉄山がお菊を責め、呪い殺されるまでをどのように進めて行くか?で、面白さは変わってくるようです。噺家の腕の見せ所でしょうか。終盤の、大勢の人が押し掛ける辺りは、話を面白くするためには何でもありかな?と思います。
 五回に亘って、お菊伝説の事を述べましたが、姫路が発祥ではないか?と感じました。それが定かではないのも事実です。しかし、お菊伝説の元祖として、松江や、京都宮津が挙げられることがありますが、何れも江戸時代の話になっています。宮津のお菊伝説に至っては、江戸時代末期の話になっています。皿屋敷の話が芝居や浄瑠璃で発表されて百年後の事です。更に、松江は雲州、姫路が播州、江戸が番町、皿屋敷となっており本家の伝説をもじってそれぞれの皿屋敷となったのでは?と言う説が有ります。そうした場合、雲州と番町はとてもつながりません。播州皿屋敷からそれをもじって番町、雲州皿屋敷となったのが自然と考えるのが普通だと思うのですが・・・いかがでしょうか?
 さて、全国各地にお菊伝説は存在しますが、どうしてお菊伝説が全国に広まったのでしょう?お菊伝説が、芝居や浄瑠璃になったのが千七百年代の頃です。その時代は、まさに封建時代です。お菊と言う名は、身分の低い女性の総称であるとの説が有ります。その為、些細な粗相で命を落とすことも頻繁に有ったとされます。その為、お菊伝説を怪談に仕上げることで身分の高い者が、低い者に対して理不尽な事をしない様、戒めの為に広がったと言う説が有ります。
 ようやく次の記事に移る事が出来そうです。失業中の様な更新はなかなかできませんが、宜しくお願いします。

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