オッサンのブラリ一人旅(お菊神社~お菊伝説Ⅲ)

 お菊伝説の3回目です。
 前回まで、姫路のお菊伝説を紹介しましたが、今回は江戸の番町皿屋敷について述べたいと思います。
 最も広く知られているのが、1758年に講釈師、馬場文耕が発表した「皿屋敷弁疑録」が元とされ芝居となった「番町皿屋敷」との事ですが、それより前1712年宍戸円喜の「当世知恵鑑」という書物に収録された話もあり、それが番町皿屋敷の原型と考える事が出来そうです。

まずは、当世知恵鑑の一節から
 江戸服部氏の奥方は、極めて妬みが深かったそうです。ある日、妾が十枚組の南京の皿を一枚割ってしまいます。奥方は女に弁償を要求しますが古い品で、元より無理難題でした。更に女を幽閉し餓死させようとしましたが5日程経っても女は生きており、ついには、自ら女を絞殺し、奉公人に金を渡し亡骸を処分するよう命じました。死体を運んでいる途中、女は蘇生し隠し持っていた二百両を差し出し命乞いをしますが、奉公人達は二百両を奪い、女を殺して野葬にしてしまいます。
 その後、奥方は喉が腫れて塞がり息が出来なくなり、危険な状態に陥ります。奥方を診ている医者の所に女の怨霊が現れ、奉公人達はすでに呪い殺し、奥方はどう治療しようと助からないと言い残したとの事です。

 ここでは井戸には落とされていません、皿も数えていません。どのように知れ渡っている、皿屋敷になって行ったのでしょう?ヒントは皿屋敷弁疑録に在るように思います。

皿屋敷弁疑録です

 家光の代、吉田大膳亮の屋敷を召し上げ、将軍の姉天樹院を住まわせました。しかし天樹院の振る舞いは、悪評高く、酒や色事に溺れていました。そして愛人の花井壱岐と女中竹尾が恋仲であると疑い、虐殺し井戸に捨ててしまいます。他にも犠牲者は後を絶たず、天樹院の死後、屋敷は荒廃し妖怪屋敷と呼ばれたそうです。

 ???皿屋敷と何の関係が・・・と思ってしまいます。吉田大膳亮の屋敷はいったん空屋敷となりそこから更屋敷(皿屋敷)と呼ばれたとの事です。更に天樹院と言うのは千姫の事です。姫路城主本田忠刻と死別後、江戸に移り住んでいます。姫路の話・当世知恵鑑を纏めれば・・・

番町皿屋敷です

 江戸は牛込御門内五番町に吉田屋敷と呼ばれる屋敷が有りました。この跡地に、千姫の御殿が建てられ、それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳が有りました。ここに奉公していた下女の菊は主膳が大事にしていた十枚組の皿の一枚を割ってしまいました。奥方は菊を責めますが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりに菊の中指を切り落とし、手打ちにすると言い一室に監禁してしまいます。そして菊は縄付きのまま逃げ出し裏の古井戸に身を投げてしまいました。その後、毎夜、井戸から更を数える菊の声が聞こえてきました。やがて、奥方に子供が生まれましたが右の中指が有りません。更に、この事件が公儀の耳に入り主膳は所領を没収されました。その後も皿の数える声が続き、公儀は了誉上人に鎮魂の読経を依頼します。ある夜、上人が経を上げていると皿を数える声が聞こえてきます。「一枚・二枚~八枚・九枚」続いて上人が十枚と付け加えると菊は消え失せたと言う事です。
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 ここまで調べると、江戸の番町皿屋敷は姫路の話を元に脚色したものではないか?と感じます。特に、青山播磨守主膳や千姫等姫路をまねたのではないか?と思わせるキーワードが出て来ます。
 しかし、未だ我々がイメージするお菊伝説とは少し違っているような気がします。どの辺りから我々がイメージするお菊伝説になったのかは、次回以降に述べたいと思います。

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